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海運雑学ゼミナール
153 歴史の舞台に突如あらわれ突如消え去った鄭和の大船団
 ポルトガルのエンリケ航海王子が、アフリカ回りでインド洋に出る航路を求め数多くの遠征隊を送り出していた頃、東の海からはるばるインド洋を越えアフリカの東海岸にまで至った史上類をみない大船団があった。明代初期・永楽帝の時代に始まった宦官の鄭和を司令官とする遠征隊である。
 一連の遠征は4万人近くの人員と370隻にものぼる船団によって遂行された。驚くべきは当時の中国の船舶建造技術で、取宝船と呼ばれる最大船型の船は、9本のマストをもち、全長が約130m、全幅が約50mに達した。また垂直隔壁によって船倉を小区画に分け、浸水や火災の広がりに対処するなど構造面でも非常に優れた特徴をもっていた。
 1405年の第1次遠征隊はジャワとスマトラを経てセイロンやカリカットに至り、その後回を重ねるごとに西進する。訪問地は、やがてペルシャ湾の入り口のホルムズからモルディブ諸島、紅海の入り口のアデンへと延び、さらに第6次と最後の第7次遠征では、アフリカ東海岸のモガディシオやザンジバルにまで至っている。
 この遠征隊が、バスコ・ダ・ガマやコロンブス、マゼランの遠征ともっとも異なる点は、侵略の意図をまったくもっていなかったことだ。それは明帝国の威光を世界に知らしめるための使節団であり、明帝国に対する進貢国を増やすことが目的だった。そして進貢国となった国々は、何らかの貢ぎ物をするたびに明帝国からそれをはるかに上回る贈り物を受け取った。
 しかし、この史上最大の船団による大遠征は、第7次を最後に突如終止符が打たれ、鄭和自身もその大船団も歴史の表舞台から忽然と消え去る。莫大な富を浪費する遠征は帝国の経済を疲弊させるだけだと気付いた永楽帝の後継者たちは、政策を逆転させ、自国民が船を作り海に出ることさえ禁止してしまったのである。
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