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海運雑学ゼミナール
185 日米の苦境を救った船と鋼材の物々交換
 第1次世界大戦の前後、日本の造船業は海運業とともに急成長し、技術面でも建造量でも世界の上位に並びつつあった。しかし当時の日本の製鉄能力は国内需要をまかなうには程遠かった。そこで日本の造船業界は鋼材の多くを輸入に頼り、戦前はドイツとベルギーを、開戦後は連合国側の英国を主な輸入先としていた。
 しかし戦争需要で供給が追いつかなくなった英国は鋼材の輸出禁止措置をとった。日本はやむなく米国との間で46万トンの鋼材輸入契約を結び、約100万総トンの船舶を建造する計画を立てたが、やがて米国も国内需給の逼迫で鋼材の輸出禁止措置をとるに至る。
 これによって船腹拡大計画が挫折し、途方に暮れた日本だったが、一方の米国も、当時、大西洋での戦時物資輸送に大量の船腹を必要とし、日本に船舶の提供を懇請していた。
 こうした双方の窮状を救ったのが、大正7年(1918)4月に締結された「日米船鉄交換契約」。いわば、船と鋼材の物々交換契約だった。
 第1次契約では、鋼材1トンに対し1重量トンの条件で、日本は米国に対し15隻、12万重量トンの船腹を供給。さらに同年5月締結の第2次契約では、鋼材1トンに対し2重量トンの条件で30隻、25万重量トンを提供。両国はこれで窮状を救われ、日本は米国に提供した分の残りの鋼材で37万重量トンの船腹を確保した。
 史上類をみない、この国家間の物々交換プランの発案者は、当時、数十の企業を傘下にもつコングロマリットとして急成長していた鈴木商店の総帥、鈴木直吉氏だといわれている。
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