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海運雑学ゼミナール

187 遣唐使船の航海は宇宙旅行以上の難事業」

 遣隋使・遣唐使が乗った船がどのようなものだったかは詳しいことはほとんどわかっていない。しかし記録では1隻平均百数十名が乗船し、土産や賜物、食料品、飲料水なども積み込んだとされているからかなりの大船である。
 この時代の日本で一般的な船といえば、刳舟(丸木舟)をベースに周囲を波除けの舷で囲った程度のもので、当時の日本の造船技術では、こんな大型船はまずつくれない。おそらく徐々に流入してきていた大陸の技術の断片を寄せ集め、国家プロジェクトとして、いわば力づくで建造されたものだと考えてよいだろう。
 しかし、にわか仕立ての新技術ゆえに構造面の脆弱さは如何ともし難く、また当時の日本には季節風や気象・海象の知識もほとんど無かった。このため遭難や事故はきわめて多く、使節や乗組員にとってはいわば決死の航海だった。  初期の遣唐使船の航路は、博多から対馬を経て朝鮮半島の西岸沿いに北上し、山東半島に上陸するもの。島づたい、陸づたいのこの航路は安全度が高く、遭難の記録は残っていない。
 しかし中期には、新羅との政治的な軋轢から朝鮮半島沿いの航路をとることが難しくなる。そこで新たに開かれた航路が「南島路」。博多から五島列島を経て南下し、南西諸島沿いに進んだのち奄美大島から北西に転じて東シナ海を横断、揚州に至る航路だが、この時期には5回の航海で2回の遭難が起こっている。
 末期には、さらに最短航海を目指し、五島列島から一気に東シナ海を横断する「大洋路」をとるが、この航路の4回の航海のうち往復とも全船無事だったのはなんと1回だけだった。
 大使と副使が出来の良い船を奪いあい、負けた副使が仮病で入唐を忌避、処罰されたという笑えない話もあるほどで、遭難による死者は膨大な数にのぼった。大陸文化に夢を馳せた遣唐使たちの航海は、まさに現代の宇宙旅行以上の難事業だったといえる。
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