日本船主協会

トップページ海運雑学ゼミナール

海運雑学ゼミナール

210 「オイルロード」に変身した「海のシルクロード」

 「シルクロード(絹の道)」の命名者はドイツの地理学者リヒトホーフェン。中国産の絹製品を背に乗せたラクダの列が、オアシス伝いに西に向かう情景が、この言葉を聞いたとたんに眼に浮ぶほどイメージが定着している言葉だが、近世以前の主要な東西交易ルートとしてのシルクロードは、実は陸の道だけではなかった。
 南シナ海に面する泉州や広州の港からインドのカリカットやゴアを経てペルシャ湾や紅海に至り、そこから陸路でローマにまで至った長大な海路は、まさに「海のシルクロード」ともいうべきものだった。
 陸のシルクロードは、紀元前2世紀頃に開かれたとされるが、海のシルクロードの歴史も古く、中国・インド間の航路については、紀元前2世紀後半の中国の記録に現れている。また1世紀に書かれた「エリュトリア海案内記」には、ローマからインドへの海路についての詳しい記述とともに、中国についての若干の記述もみられる。さらに166年には、ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの使者が、この海路を通って中国を訪れた記録もある。
 南海路と呼ばれるこの交易路は、当初、インド以西をローマ人が、インド以東をインド人が掌握していたが、やがてイスラム商人が交易の主導権を握り、貿易港の広州や泉州にはイスラム商人が多数居住したという。元時代には中国船も進出するようになり、マルコ・ポーロが、海路、故郷のジェノバに帰還したのも、元のフビライが用意した中国船によってだった。
 さらに明代に入ると、永楽帝の命による鄭和の7回の大航海が行われ、明の威勢を誇示する大船60隻余り、乗員27,000人という大船団は、遠くアフリカ東岸まで到達した。永楽帝の死によってこの大航海は突如終焉を迎えるが、南海路自体は、大航海時代のヨーロッパとアジアを結ぶ主要航路の一部としてさらに重要度を高め、スペイン、ポルトガル、オランダなどの列強の進出によって東西交易の表舞台となった。
 2000年余りの歴史を秘めるこの航路は、現在も、中東と日本を結ぶ原油の輸送ルートとして欠かせない。「シルクロード」から「オイルロード」に変身しても、東西の貿易に果すその役割の重要性はやはり不変である。
前のページへ海運雑学ゼミナールタイトル一覧へ次のページへ