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海運雑学ゼミナール

249 日本に近代造船技術をもたらしたロシア軍艦ディアナ号の遭難事件

 安政元年(1854年)11月に起こった安政大地震による津波で、折りしも日露和親条約締結交渉のために伊豆下田に碇泊していたロシア使節プチャーチンの乗艦ディアナ号が大破。修理のために君沢郡の戸田に回航中に沈没した。
 酷寒の海に投げ出された約500人の乗組員は沿岸の漁民たちが総出で救出し、ロシア側に大きな感銘を与えた。こうした信頼感もあってかプチャーチンは幕府の許可を得て戸田港で帰国のための代船を建造することにした。
 これに大いに協力したのが開明派の代官江川太郎左衛門。本格的な洋式帆船の建造技術を習得する絶好のチャンスと近郷はもとより江戸からも優秀な船匠や鍛冶を呼び寄せた。
 設計と監督はロシア側が行ったが、艤装用金具から塗料まですべて現地で作ったため技術習得の成果は実に大きかった。
 建造された第一船は戸田(へだ)の地名から「ヘダ号」と命名され、もう一隻の同型船とともに、条約締結の使命を果たしたプチャーチン一行を乗せ、無事ロシアへの帰途についた。
 このとき建造されたのは二本マストのスクーナー型帆船で、幕府がのどから手が出るほど欲しかった洋式軍艦への転用には不向きだったが、高速を生かした貨物の輸送には適していた。このため「君沢型」と名付けられた同型船がその後何隻も建造され、長く活躍した。
 こうして本格的な洋式帆船の建造技術を学んだ日本の技術者の何人かは、日本の造船の黎明期を支え中心的な役割を果たしてゆく。
 日本との条約締結ではペリーの後塵を拝するかたちとなったプチャーチンだが、地震のおかげとはいえ、その置土産の大きさは、決して小さいものではなかったようだ。
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