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海運雑学ゼミナール

259 失火のお詫びにもたらされた古代日本の大型船建造技術

 それまで船といえばせいぜい丸木舟しかなかった日本で、突然、遣随使船や遣唐使船のような渡海用大型船が建造された理由は、おおむね謎とされている。しかしそれ以前から、すでに朝鮮半島との交流は盛んで、そこから流入した技術がベースとなったことは確かなようだ。
 そうした技術導入の歴史を象徴する事件が応神31年(5世紀頃、記紀の記述に基づく年代で特定できない)に起こったといわれる武庫の港の大火災。
 応神帝は、20余年愛用した公用船「枯野」が老朽化したため、諸国に命じて新たに500隻の船を建造させた。その500隻の献上船が武庫の港(当時の難波の外港で、一説には後の兵庫ともいわれる)に集められたとき、ちょうど滞在していた新羅使節の船から出た火が延焼して、ほとんどの船を焼き尽くしてしまった。
 新羅王はこれに恐縮し、応神帝に新羅の船匠を献上して謝罪する。この船匠たちが持ち込んだ技術は日本の造船のレベルを一気に引き上げた。当時の新羅の船は、すでに渡海用の準構造船(刳舟をベースに多数の木材を組み合わせて構造化した船)の水準に達していたのだ。
 こうして流入した大陸の技術が、その後さらに成熟し、やがて遣随使船や遣唐使船のような大型準構造船の建造に結実したのだろう。
 その後、中国の技術も導入され、日本の造船技術はより高度になるが、やがて遣唐使派遣の終焉とともに技術の伝承は途絶えてしまう。
 政治制度から美術、建築まで、当時積極的に輸入された外来文化のほとんどが、その後の日本社会に見事に定着したのに対し、こと造船技術だけは痕跡もなく消えてしまった。遣随使船や遣唐使船が建造できた理由より、こちらの方が、むしろ歴史上の大きな謎といえそうだ。
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