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海運雑学ゼミナール

286 鎖国下の長崎を襲った「フェートン号」の衝撃

 文化5年(1808)8月15日、一隻のオランダ船が長崎に来航した。入港手続きを行うべく長崎奉行所の役人とオランダ商館員2名が小船で向かうと、その船からもボートが下ろされ、双方が近づくや否や、オランダ商館員2名はボートの武装兵によって拉致された。あっけに取られる人々の目の前で、船はオランダ国旗を降ろし、替わってイギリス国旗を高々と掲げた。
 その船はイギリスの軍艦「フェートン号」だった。当時、ヨーロッパではフランス革命の波乱のなかオランダはフランスに併合され、フランスと敵対関係にあったイギリスは東アジアのオランダ植民地を次々に奪取、東アジア貿易の独占をめざしていた。フェートン号来航の目的は、長崎に停泊しているオランダ船を捕獲し、オランダの対日貿易に打撃を与えることだった。
 32門の大砲を備えたこの軍艦は、港内を威嚇するように航行し、オランダ商船がいないことを確認すると、人質との交換を条件に食糧と水を要求。それに応えなければ、港内の和船や唐船を焼き払うと脅迫した。
 長崎奉行松平康英は、実力による人質の解放とフェートン号の焼き討ちを計画。しかし太平の世に慣れた長崎警護の鍋島藩守備兵は手薄だった。やむなく水と食糧を提供し、九州諸藩の援軍を待つが、準備が整わないうちにフェートン号は、人質を解放して立ち去ってしまう。
 この不祥事の責任をとって松平康英は自刃し、鍋島藩主の鍋島斉直は蟄居となる。しかしイギリスが日本への侵略の意図をもたなかったことに加え、日本側の迎撃態勢の遅れによって、この事件はことなきを得たともいえる。もし計画通り攻撃に成功していたら、いずれ圧倒的な武力報復で、ペリー来航を待たずに太平の夢は終わっていたかもしれない。
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