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海運雑学ゼミナール

290 ベーリング海峡:
苦難の果てに発見したアラスカの売り値は720万ドル

 コロンブスの発見から200年以上たった18世紀初頭に至っても、新大陸に関する地理上のある謎は残されたままだった。新大陸とアジアの間に海峡はあるかという問題である。近代ロシアの基礎を築いたピョートル1世は、この問題に強い関心を持ち続けていた。
 死の約1ヵ月前の1724年12月23日、彼は、デンマーク出身のロシア海軍士官ウィトス・ベーリング宛てに「カムチャッカから陸沿いに船で北上し、その陸地がアメリカ大陸と接しているか確認せよ」という命令書をしたためた。
 ベーリングはシベリア横断の過酷な旅の果てにカムチャッカ半島東岸に到達。そこで探検船「ガブリール号」を建造し、34日間で約2,400キロを北上。のちにベーリング海峡と呼ばれる海峡の存在を確認する。
 しかしロシア政府内部では、さらに北に陸続きの部分があるのではないかという議論が起こり、ベーリングに再調査が命じられた。
 この第2次探検は10年の歳月と約600人の人員を投じ、北大西洋の自然や民族の研究プロジェクトも含む、当時、世界最大級の探検事業だった。ついにアラスカに上陸しロシアによる領有を宣言したベーリングは、帰路、アリューシャン列島の小島(ベーリング島)で死亡する。
 その後、アラスカにはアザラシなどの毛皮を求めた入植者が押し寄せるが、乱獲で動物たちは絶滅の危機に瀕し、イギリスやアメリカも毛皮貿易に進出したため、ロシアにとってアラスカの経済的魅力は色褪せた。加えてクリミア戦争による経済的な疲弊もあり、アラスカは1867年にわずか720万ドルでアメリカに売却された。
 約30年後、アラスカはゴールドラッシュの時代を迎える。以後も、石油・天然ガスやさまざまな鉱物資源の発見が相次いだことを考えれば、アラスカはアメリカにとってじつに安い買い物だったことになる。
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