日本船主協会

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古代から近代へ
古代から中世へ
 大小無数の島によって形成された自然条件から、日本では、古くから海上交通が盛んだったと考えられています。「古事記」や「日本書紀」などにも船に関する記述が数多くみられますし、「魏志倭人伝」など中国古代の文献にも、倭人(日本人)が何度も訪れて朝見したとの記述があり、この時代にはすでに朝鮮半島沿岸を迂回して中国に達する航路が開けていたと考えられています。
 推古17年(607)には、聖徳太子が小野妹子を隋に派遣(遣隋使)し、隋との間に正式な国交が開かれました。この時代の日本の船は、刳舟(くりぶね)と呼ばれる丸木舟をベースにしたものが中心でしたから、おそらく大陸の技術を導入して特別に建造されたものだと考えられています。しかし当時の航海術はまだ稚拙で、遭難による死者も数多く、大陸と日本を結ぶ当時の航海は、現代の宇宙旅行以上の難事業だったことが容易に想像されます。
 その後、唐の時代になって、630年から894年まで遣唐使船が18回派遣されましたが、この当時の船は、ジャンク船型だったと言われています。船は大型化しましたが、それでも日本に無事に帰ってきたのは、18回中8回に過ぎませんでした。
 やがて平安時代(794‐1192)に入り、遣唐使が廃止されると、以後、一旦は大陸との行き来は途絶えますが、平安末期、平清盛が再び海外との交易に着目します。清盛の宋貿易掌握への野望は、源氏の挙兵によって挫折しますが、瀬戸内海航路の整備や大規模な港の修築など、海上交通発展への功績は、現在も高く評価されています。
 その後の鎌倉時代(1192‐1338)には、国家レベルでの外国貿易は特に行われませんでしたが、民間では対宋貿易が盛んに行われ、宋からは、香料、医薬、陶器、絹織物などが輸入され、日本からは扇、刀剣、水銀などが輸出されていました。この頃、中国や朝鮮半島の沿岸の町を襲うなど活動が活発化したのが倭寇です。
 室町時代(1338‐1575)に入ると、足利義満が明との間で勘合貿易を開始し、外国との貿易が再び盛んになります。義満には、民間で盛んに行われていた対明貿易の利益を独占しようという意図がありました。
 一方の明は、和寇(倭寇)の鎮圧を幕府に求めており、双方の利害が一致した結果、明は義満の派遣した遣明船を喜んで迎え、勘合符100通を贈与。これを官許貿易船の証明として行われたのが勘合貿易です。
 対明貿易の発展に伴って造船技術も進み、15世紀には2,500石クラス(千石船で約150トン積み)の航洋型の大型船も造られるようになりました。しかし帆走技術は未発達で、風待ちのため往復に3年以上かかる場合もありました。
 一方、国内では、この頃から日本海測の航路が発達をみせはじめ、若狭の小浜と宇須岸(函館)との間を商船が往来し、近畿地方の産物や、昆布を中心とする蝦夷地の産物を運んでいました。
近世の海運
 戦国時代になると鉄砲の伝来(1543)やスペイン人宣教師フランシスコ・ザビエルの来日(1549)など、西欧の文化や技術が流入してきます。この頃の貿易品は、輸入品が中国産の生糸や絹織物、鉄砲、火薬など、日本からの輸出品は主に銀でした。
 織田信長と豊臣秀吉は、ともに海外貿易に熱心でした。特に秀吉は、朱印状を発行し、外国貿易を政権の管理下におきます。この朱印状を持つ官許の貿易船は御朱印船と呼ばれ、広くアジアの国々と活発な交易活動を行いました。
 徳川家康も同様に貿易を奨励し、オランダ人ウィリアム・アダムス(三浦按針)を召し抱え、日本最初の西洋型帆船2隻を建造させます。その1隻は、遭難したマニラ総督に与えられ、3ヶ月の航海で無事メキシコのアカプルコに到着(1609)したということです。この船には親書や宝物を携えた商人・田中勝介が便乗しており、日本人による初の太平洋横断記録を残しています。  その後、家光の時代になって江戸幕府は鎖国政策をとり、以後220年間海外との隔絶時代が続きます。その間、唯一開かれた長崎の「出島」には中国船とオランダ船だけが入港を許され、この出島を通じた貿易が海外と日本をつなぐ唯一のかけはしとなりました。
 鎖国時代を通じて未曾有の繁栄をみせたのが、当時の内航定期航路の「廻船」です。太平洋岸を通って大阪〜江戸間を結んだ「菱垣廻船(ひがきかいせん)」や「樽廻船(たるかいせん)」、日本海・瀬戸内海経由で北海道や日本海側の港と大阪を結んだ「北前船(きたまえぶね)」などがその代表で、生活必需品や、時には人も運びました。
 こうした廻船業者は、わが国で最初の定期航路の運航者ともいえる存在でした。それまでは荷主である商人自身が船を所有・運航し、自らリスクを負って交易活動を行っていましが、廻船の登場で、商人たちは運賃を支払えば、どこへでも品物を運ぶことができるようになったのです。荷主と海運業の分離が、この時代にすでに始まっていたわけで、これは世界でも最も早い時期に当たります。
 この当時使われた船は弁才船(べざいせん)と呼ばれ、近世から近代までの和船のスタンダードといえるものです。横帆1枚の単純な帆装にもかかわらず、帆と舵の巧みな操作で横風や逆風でも帆走が可能で、時代とともに速力も向上の一途をたどっていました。この強力な輸送力は、江戸時代の経済や文化を支える上で大きな役割を果たしました。
近代的日本海運の誕生
 嘉永6年(1853)ペリーが浦賀を訪れたことがきっかけとなり、220年に亘った鎖国時代は終わり明治維新を迎えます。明治新政府がまず直面した問題の一つが全国の貢米の輸送でした。困ったのはその輸送手段で、当時の西洋型帆船は、ほとんどが幕府や諸藩が建造した軍艦だったため、国内の海上輸送には、日本型帆船しか使えず、その輸送力には限界がありました。これに乗じて日本の沿岸輸送を独占しようとしたのがアメリカのパシフィック・メール社です。
 明治政府は、これに対抗すべく半官半民の回漕会社を設立、貨客定期航路を開設しますが、わずか1年で経営困難に陥ります。同じ頃、土佐藩士の岩崎弥太郎も定期航路を開設し、その後、土佐の乱や台湾征討の物資輸送で海上輸送業者として躍進を果たします。
 政府はこれらの戦役を契機に自国海運拡充の必要性を改めて痛感し、民間海運会社の筆頭となっていた三菱商会を全面的にバックアップする政策を採用します。三菱商会は、その後、郵便汽船三菱会社と改称し、政府の保護の下、横浜/上海航路を牛耳っていたパシフィック・メール社の独占体制に果敢に挑戦し、ついには同航路および日本の沿岸航路から撤退させます。明治18年(1885)には共同運輸が合併して日本郵船会社が誕生しました。
 他方、瀬戸内海を中心とする内航の船主らが団結し、明治17年(1884)、大阪商船会社を設立します。
 その後も明治政府の助成政策は続き、日本海運は積極的に外国航路に進出するようになります。さらに日清・日露の両戦争による特需も、発展の大きなバネになります。こうした海運の発展に伴って、造船業も次第にその基盤を固めて外国航路に就航する大型汽船の多くが国内で建造されるようになりました。長い鎖国の眠りからさめてわずか40年ほどで、日本は世界を代表する海運国の一つとして華々しく歴史の舞台に登場します。しかしそれは第一次世界大戦、第二次世界大戦という2つの戦争を通じて激しく転変する明と暗の新たなドラマの幕開けでもありました。