日本船主協会

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第1次世界大戦から現代まで
第1次世界大戦と日本海運
 明治政府の海運増強策や日清・日露の両戦争による特需をバネに、明治末から大正初期にかけての日本海運は、すでに世界の一流海運国に伍する地位を確立していました。その勢力をさらに飛躍させたのが第1次世界大戦(1914〜1919)です。
 参戦国の船は続々軍用に徴用され、撃沈される船も数多く出てきました。船舶の欠乏と軍需物資の輸出増大で、日本の海運・造船界は異常な熱気に包まれます。太平洋航路の英米船舶は大西洋方面での膨大な軍需物資輸送のために本国に引き揚げ、これに伴って日本船が太平洋航路を独占するようになります。
 こうした戦時需要は日本の産業界に空前の好況をもたらし、貿易収支は一気に黒字に転換します。しかし、大正5年(1916)4月にイギリスは鉄鋼の輸出を禁止。最後の供給国となったアメリカも翌年に輸出禁止措置に踏み切り、戦時需要に対応して増産体制を敷いていた日本の造船業は大きな打撃を受けます。一方のアメリカも船腹の不足が深刻化し、大正7年、日米船鉄交換契約を結びます。これはアメリカが供給する鋼材1トンにつき日本の造船業者が1重量トンの船舶を建造して提供し、残りの鋼材は日本側で自由に使用できることとしたものです。この契約で日米両国の窮状は救われたのでした。この大戦の前後で、世界の海運地図は大きく塗りかえられました。日本の船腹量は英・米に次ぐ第3位へと躍進しました。
 大正8年(1919)にベルサイユ平和条約が締結され、ついに戦争は終結。船腹は一転して過剰状態に陥り、市況は急速に下降します。貿易の不振で運賃は低落し、長く海運界は低迷を続けました。昭和6年(1931)、金輸出の再禁止で円為替が下落したのがきっかけとなって輸出が増大し、海運界はやっと健全な経営状態を回復します。
 この時代は大型優秀船建造ブームの時代で、日本の高速貨物船や豪華客船などが覇を競い、太平洋や南方で外国船を圧倒しました。
第2次世界大戦と日本海運
 こうして安定的な軌道に乗りはじめたかにみえた日本の海運界に、再び風雲急を告げる時代が訪れます。第2次世界大戦(1941‐1945)の勃発です。
 太平洋戦争突入後の昭和17年(1942)には、戦時海運管理令が施行されます。新たに設立された船舶運営会が、政府が徴用した船舶の運航・管理に当たるようになり、日本商船隊は国家の管理下に置かれます。国際定期航路の多くが閉ざされ、戦前、太平洋航路を舞台に覇を競った日本の優秀船は次々に戦場に向かいました。これらの優秀船のほとんどは沈み、船員の犠牲も30,592人に及びました。敗戦直後の日本海運は、まさに壊滅といってもいい状態から再出発したのです。
 敗戦後も引き続き船舶を運航・管理するようになった船舶運営会の初仕事は、660万人に上る外地からの引き揚げ者の輸送でした。残存する日本船では到底運び切れず、米国から200隻もの船舶を借り受けての大事業となりました。
 総額25億円に上る喪失船舶に対する戦時補償が打ち切られ、経済再建に不可欠な船腹を何とか確保しようと実施されたのが計画造船です。財政資金と市中銀行の協調融資による資金をベースに建造量と建造船種を決定し、これを申込船主に割り当てるというもので、復興金融公庫を通じた第1次計画造船が、昭和22年(1947)9月に実施されます。この計画造船は、その後も長期にわたって継続され、戦後の海運再建の原動力となります。
 昭和25年(1950)には、ついに船舶運営会が解散。全船舶が船主に返還され、待望の民営還元が実現します。朝鮮特需で一旦は海運界もまた活況を呈します。しかし翌26年には休戦協定が結ばれ、景気は下降に向かいます。
 昭和26年(1951)9月、ついに49ヶ国との間に講和条約が結ばれ、日本は主権を回復します。昭和27年(1952)までには戦前の定期航路への復帰もほぼ完了します。
 昭和30年(1955)頃から先進諸国を中心に工業生産が拡大し、海運市況も上昇しはじめます。日本海運も活況を呈し、計画造船の早期着工や自己資金船の大量建造も行われるようになりました。
戦後の成長期から現代まで
 昭和35年(1960)頃には、先進国間の貿易量の増大、世界的な石油輸送需要の増大、ソ連の北米からの小麦大量買い付けなどによって世界の海運市況も活況を呈し始めました。日本の造船業も世界的なレベルに達し、高経済船の建造や、大型タンカーが建造されていきます。
 この頃、国際定期航路でも一大革命が起こります。海上コンテナ輸送の出現です。これにより国際定期航路の輸送は飛躍的にスピードアップ、さらに陸上輸送との連携で海陸一貫輸送を実現。定期航路の輸送効率化に大きく貢献します。
 世界経済が好調を続け、国内でも高度経済成長の時代を迎えたこの時期にも、日本の海運業界は収益面での不振にあえいでいました。昭和39年(1964)、業界全体を6グループに再編成する海運集約を行うに至って、日本商船隊の経営基盤がようやく確立されます。
 昭和48年(1973)の第1次石油危機、さらに昭和54年(1979)の第2次石油危機など、その後も困難は続きますが、昭和60年(1985)のプラザ合意以降急激に進んだ円高は、それ以上に日本の海運業にとって大きな打撃となりました。円高はその後もとどまることを知らず、海運企業の収益を圧迫し続けます。
 そうした中でも日本海運は、石油代替エネルギーの中心となるLNG(液化天然ガス)輸送のためのLNG船の積極投入をはじめ、産業や国民生活からの要請に応える豊富な船種を整備し、石油をはじめとするエネルギー原料から工業原料、穀物、木材、工業製品まで、日本の暮らしと産業を支える膨大な物資輸送を支え続けてきました。また近年、高まりを見せる地球環境保全の観点から、タンカーの二重船殻化やシップ・リサイクルの促進等にも、力を注いでいます。
 日本に近代海運が誕生して百有余年。時代の荒波に揉まれながらも、国民生活と産業の発展を支える日本海運の力強い活動は途切れることがありませんでした。経済のボーダーレス化が進展する今日、地球規模で展開する物流の唯一の担い手である海運にも、より複雑で高度なニーズが生まれています。21世紀を迎えての、その果敢な挑戦は、波乱に満ちた活動の歴史に、さらに創造力あふれる新たな1ページを付け加えようとしています。