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オピニオン

2007年10月

「我は海の子」に想う

日本船主協会 副会長
日本郵船株式会社 代表取締役社長
(日本内航海運組合総連合会会長)
宮原 耕治

私が小・中学校時代を過ごしたのは、瀬戸内・岡山県の小さな町である。文字通り、毎日海の側で真っ黒になって遊び、夜は波の音を聞きながら眠りについた。

 どこの家も男の子が2〜3人はおり、中には商船大学や商船高校に行くお兄さんもいた。お父さんが船長という家では、娘たちは少しいい洋服を着て、時に私たちにチョコレートをくれたりした。
 当時、昭和30年代の前半の頃、大学進学率は18%程度で、まだ低かった。私の育った小さな町にも「海員学校」があり、中学を卒業後2年間勉強すれば部員になれた。まだ子供の顔をした可愛い制服姿を今も忘れない。また、中学の同級生の内、成績のよい何人かは、香川県の電波高校に進学した。卒業すれば、通信士となり船に乗った。このように身近に海があり、船員がいた。

 その後時代は移り、出生率が1.7台迄下がった昭和50年代の終わりには、多くの若者が大学を出て安定した陸のサラリーマンになることを希望するようになり、その分船員希望者が減った。

 そこに追打ちをかけたのが、昭和60年のプラザ合意であった。それ迄1ドルが240円で換算されていた日本人コストは一気に倍増し、フィリピン人、インド人など外国人に対し国際競争力を失った。その後、苦渋の選択として「緊急雇用対策」を実施せざるを得なかったことは、ここに改めて記す必要もあるまい。

 プラザ合意後20年余りの間、日本人船員の数は減り続けている。各社の採用数は略一定であるが、退職者の数の方がそれを上回るからだ。国際競争力を決める要因の一つである為替の壁は依然として極めて厚い。それだけではない。もう一つ大きな壁は少子化である。今や、出生率は1.2台まで下がり、平均的家庭では男の子は一人以下である。早い話、昔であれば2〜3人いた男の子の中、1人くらいは船に乗って親元を離れても良かった。今は事情が異なる。母親がまず船乗りになることを許さないという話を聞く。

 更に先程、通信士の話を書いた。船舶通信士の職は、衛星通信の発達に伴い縮小し、1999年を境にゼロになった。こうして考えると、今後日本人船員のなり手を確保して行くのは容易ではないが、私たちはその困難を見越してこれ迄経営に当たって来た。即ち、限られた数の日本人船員を、単なる乗組員ではなく、むしろ陸側から多数の外国人船員を指導し、教育し、自社の物の考え方やクオリティを植えつけるためのマネージャー(管理者)として育成してきたのである。時間はかかるが、このようなグローバルな広い心と強いリーダーシップを持った、若く新しい「海の子」を多く育てたい。

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